ホームムービーで振り返る
― JAMIA新会長と家族が語る、
1970年(昭和45)から約10年の8mmフィルムと家族の記憶
1970年(昭和45)から約10年の8mmフィルムと家族の記憶
はじめに
一般社団法人日本映像アーキビスト協会で代表理事・会長を務めている田中重幸です。
田中家では、私が生まれる前の1970年(昭和45)頃から私が小学校に入った1980年(昭和55)頃まで、父が8mmフィルムの撮影を趣味にしていました。当時は、今と違い動画、つまり自分が動いている姿を見ることは非常に珍しいことでした。月に一回の土曜に行う8mmフィルム上映会が楽しみでした。自らの姿をスクリーンで見ては、幼心に「保育園時代から落ち着きのない子だなぁ」と思ったものです。こうした経験が、映画好きになり映画を仕事にしたのかもしれません。
地域映像において、当時の撮影者と被写体だった人のインタビュー・回顧録はあまりないように思われ、父の記憶がはっきりしている間に、オーラルヒストリーを残そうと決意した次第です。父にずっと聞けないでいた、当時の8mmフィルムをとりまく状況を交えながら、8mmカメラ・映写機を買った経緯、撮影方法(本人が映っている場合は誰が代わりに撮影していたのか、編集ができない中で撮影を工夫し始めた背景など)を中心に、インタビューを行いました。また、田中家だけの内輪ネタで終わってしまわないために、フリーで映像アーキビストを目指している会員の時田桃々子氏に第三者的視線でインタビューと執筆を共同で行いました。
尚、残された8mmフィルムは、株式会社東京光音さんにHDでテレシネ変換したものをコンバートしてDVDに焼いていただきました。
田中家の背景
田中家は、祖父の代に愛知県三河地方から東京墨東地区に移り住み、戦後から東京都江東区森下に住み、餅菓子屋・羊羹屋を経て、東京城東地区・千葉などで菓子の代行業を営んでいました。主たる撮影者である、父と被写体となる家族の構成を紹介します。
父:1935年(昭和10)生まれ 8mmフィルムの主たる撮影者
母:1941年(昭和16)生まれ
祖父:1902年(明治35)生まれ
祖母:1909年(明治42)生まれ
姉:1965年(昭和40)生まれ
兄:1968年(昭和43)生まれ
会長(おとうと):1973年(昭和48)生まれ
インタビュー
時田「はじめまして、JAMIA会員の時田桃々子と申します。学生会員時代に当時事務局長だった重幸さんからお話をいただき、今回お二人にインタビューをさせていただくことになりました。本日はどうぞよろしくお願いします」
田中一家「お願いします」
1.当時の8mmにまつわる状況について
——田中家が8mmフィルムカメラを購入した当時、8mmはどの程度普及していたのでしょうか?
父「購入したのは1970年(昭和45)、大阪万博の年。自分の肌感覚では8mmフィルムカメラはそれほど普及していなかったように思う、いわば “はしり” の時代だったね」
母「8mmカメラのTVコマーシャルが流れてたのは覚えてるよ。扇千景が出てる、『マガジン、ポン!』『私にも写せますゥ』っていうやつ。あと、うちがカメラを買って少し後には音声も撮れるカメラが出てきたはず。それでも近所や知り合いで持っている人はいなかったね」
【補足】
Kodakが「スーパー8」を、富士写真フイルムが「シングル8」を発表したのはいずれも1965年(昭和40)。話題に上がったTVコマーシャルは富士写真フイルムが同年の「フジカシングル-8」発売に際して打ったもので、女優・扇千景の話すキャッチコピーは流行語となりました。また、同時録音が可能なフィルムはKodak「サウンドスーパー8」として1973年(昭和48)に登場しているため、田中家へはちょうどその間の時期に8mmカメラが導入されたようです。Kodakが「スーパー8」を、富士写真フイルムが「シングル8」を発表したのはいずれも1965年(昭和40)。話題に上がったTVコマーシャルは富士写真フイルムが同年の「フジカシングル-8」発売に際して打ったもので、女優・扇千景の話すキャッチコピーは流行語となりました。また、同時録音が可能なフィルムはKodak「サウンドスーパー8」として1973年(昭和48)に登場しているため、田中家へはちょうどその間の時期に8mmカメラが導入されたようです。
——8mm購入以前はどのような記録メディアを使用されていましたか?
父「覗いて撮影するタイプのカメラ(二眼レフカメラ)があったと思う」
会長「あったあった。小さい頃それで遊んでたんだよね」
母「壊れちゃったから子供たちのおもちゃにしたんだよ。その後は一台小さいカメラを挟んで、(自身が過去に勤務していた)ミノルタカメラ(現コニカミノルタ)のカメラ『HI-MATIC7』を購入しました。いずれも子供の成長記録用だね」

(会長が譲り受けた「HI-MATIC7」
5年前ほどに壊れて修理には出せていない)
——家庭での動画撮影が一般的ではない中で、8mmカメラを購入されたきっかけはなんでしたか?
父「長女が生まれたからだな」
母「お父さん、新しい物好きだったからね」
——購入された時のことやカメラの詳細は覚えていますか?
父「買ったのは両国にあった『東京百貨店船橋屋』だなぁ。ディスカウントストアのはしりとしてかなり盛況していたけど、2005年(平成17)くらいに倒産して無くなったはず。カメラの名前は覚えていないけど、使用していたフィルムはおそらく『シングル8』で、乾電池で動いていたよ」
——映画や映像へのご興味はどの程度でしたか?
父「特に学校に行っていたとか制作をしていたわけではない、普通です」
母「でもお父さん、子供が生まれる前はたまに両国や清澄の映画館に行ってたよね。家業が休みの日曜日におばあちゃんのおにぎり持ってさ」
会長「あの頃は映画館がたくさんあったもんね。両国は日活系で、清澄は大映系だったはず、名前まではわかんないな」
父「観ていたのはほぼ西部劇で邦画はあまり…、楽しむ程度で勉強の意識は全くなかったです」
会長「清澄の映画館はだんだんポルノをやるようになって…。当時、この前を通る幼稚園児・保育園児・小学生たちは反対側に目を背けられました(笑)。でも、夏休みには番組が『東映まんがまつり』に変更されるなど、子ども向け作品の上映もたまにあった記憶があります」
【補足】
現在は両国・清澄の両映画館とも閉館しており、建物なども残っていないそう。そこで戦後の日本に存在した映画館をデータベース化したサイト「消えた映画館の記憶」を参照したところ、それぞれ「相生館/両国日活/両国日活映画劇場」と「深川シネマ/深川東映/深川東宝」であることが判明。当時の映画館の場所や名前の変遷までもを辿ることができました。
2.「撮ること」について
——撮影の操作はご自分で?
父「うん。簡単に撮影できたので、説明書とかをみた記憶はないな」
母「お父さんが写っている動画では私がカメラを回してました。押すだけだから(笑)」
——途中「1971年(昭和46)よみうりランド」の「走り回る姉」や、「1975年(昭和50)_重幸君1歳1ヶ月-清澄庭園にて」の「一人で歩く重幸さん」では、倍速再生されたかのような映像がありました。これは演出したものですか?
父「いや、意図して撮影したわけではないはず」
会長「じゃあカメラの不具合かな。どちらも子供たちが走ったり歩いたりする様子だから、あえてコミカルな感じにしたのかと思ったよ」
——後半の映像になると、時々タイトルやインサートが入れられています。撮影を行う過程で撮影や編集の勉強をされたりしたのですか?
父「特に勉強はしてないから、多分だんだんそういうふうに工夫し始めたんだなぁ。『1977年(昭和52)8月_神輿-深川神明宮大祭』冒頭の『深川神明宮大祭昭和52年8月』というテロップは私が書きました。当時は入れ墨を入れた人も祭りに参加できたけど、今は無理だな」
母「1973年(昭和48)1月1日_初詣- 深川神明宮大祭-深川神明宮』の冒頭の初日の出は、本物でないよ。お父さん、カレンダーの裏に印刷されていた写真を撮ってたじゃない」
父「そうだったかなぁ」
母「『1974年(昭和49)8月17日_重幸君-東京実家』冒頭の『49.8.17』と『今日は 雨降りです ぼく一人で あそんでいます。』を書いたのは私だよ。ほれ、重幸が歯茎を舌でペロペロしてる(笑)。歯が生える前でムズズしてるんだよ」
【補足】
お母さまが日付と文字を書かれた用紙には、「ねんねこしゃっしゃりませ」という岡山県民謡(編曲・山田耕作)の歌詞と、どじょうを掬う少年の挿絵が印刷されていました。しかし聞いたところ田中家は岡山とは全く縁がなく、用紙はその昔銀行などでもらったカレンダーだったような気がする、とのことでした。
3.「撮られたもの」ついて
お父さま、お母さまによって撮影された2時間20分の映像の中には、家族の思い出だけではなくたくさんの地域や建造物が記録されていました。今回特定できた場所だけでも、その数およそ30箇所。その一部をGoogleマップ「田中家8mmホームムービー」にまとめました。リストに記載の地点は記事内でハイライト付きでご紹介しておりますので、ぜひご参照ください。
取材では、撮影された場所とその場に根差した記憶について映像を見ながらお話しました。
——「1970年(昭和45)6月_プール-東京スポーツセンター」の「東京スポーツセンター」は現存していない施設のようですが見覚えはありますか?
父「江東区辰巳の方の、新木場・現東京ヘリポートだと思う」
母「確か昔に美智子さまも訪問されてたよ」
会長「近くには団地や貯木場(切り出された木材を保管・管理する施設。鉄道駅・市場・工場などの近くであることが多い)もあったよね。でもこのスポーツセンター自体はそんなに長く営業していなかったはず」
——「1970年(昭和45)7月26日_二葉会旅行-水上温泉」で被写体となっていた「二葉会」とはどのような集まりですか?
会長「昔うちが羊羹屋をしていた時に参加していた、和菓子屋事業者同士の親睦会です。この旅行は、横のつながりを深めるための社員旅行兼慰安旅行といった感じでしょうか。1975年(昭和50)ごろに食品衛生法の変更があったために、うちは羊羹屋から菓子の代行業に転向。私が小学生だった1985年(昭和60)ごろには、二葉会との交流はなくなったと記憶しています。また、同時代に父は『旅愁会』という男性だけの親戚や友人と旅行に行く会にも参加していたため、二葉会旅行と混同している可能性もありますね。因みに、この旅行で一行が宿泊していた『ホテル聚楽』は、TVコマーシャルにマリリン・モンローのそっくりさんが登場しており、彼女の『聚楽よ!』という台詞は当時私のような小学生によくモノマネされていました。関東近辺の私と同世代の人は大体知っているTVコマーシャルかと思います」
【補足】
「ホテル聚楽」は、1924年(大正13)創業の「聚楽グループ」が運営していた宿泊施設です。映像からは大宴会場やボウリング場があったことが確認され、当時のレジャーの動向を伺うことができます。群馬県利根郡みなかみ町では、「ホテル聚楽」の系譜を受け継ぐ「みなかみホテルジュラク」が現在も営業を続けており、水上温泉を訪れる人々の宿泊先として、今も変わらず親しまれています。また、聚楽グループ創業100周年に際して、同グループが記録してきた大正・昭和期の街の映像が公開されておりましたので、上記URLからぜひご参照ください。
——「1970年(昭和45)11月22日_野球-若葉野球倶楽部」の野球チーム「若葉野球倶楽部」でお父さまはどのように活動されていましたか?
会長「父は学生の頃から70歳までのおよそ50年間、選手としてチームに参加していました。集合は朝5〜6時で、野球だけではなく一緒にモーニングを食べたりもしていたようです。私も20代の頃は参加していました。活動後期はストイックに勝敗を追い求めるというより、地域の緩いコミュニティとして機能していました」
——「1975年(昭和50)8月_海水浴_一の宮伊良湖」の撮影地は「撮影年不明_海水浴_一の宮伊良湖」と同じでしょうか?
母「まず『1975年(昭和50)8月_海水浴_一の宮伊良湖』 は、伊良湖の中でも江比間海岸と呼ばれる所だね。『一の宮』は愛知県一宮市ではなく、愛知県豊川市として再編された旧・宝飯郡一宮町のことで、私が生まれた所です。実家に帰省すると親戚一同車に乗り合って一宮町から伊良湖方面に海水浴に行ってたよ」
会長「ちなみに『撮影年不明_海水浴_一の宮伊良湖』で写っていた大型の船は伊良湖岬と伊勢とを往復するフェリーだと思います。なのでこちらはおそらく『1975年(昭和50)8月_海水浴_一の宮伊良湖』の江比間海岸よりも西側、渥美半島の先のほうで撮影したものかと」
—— 1971,77,80年(昭和46,52,55)と、連続して深川神明宮例大祭を撮影されていますが、この水掛祭りは森下に古くからあるお祭りですか?
父「はい。江戸時代から行われていると聞いている。祭りといえば“水掛”だった」
母「私は結婚を機に上京したから、水掛にはあまり馴染みはなかったね。代わりに思い浮かぶのは疎開先だった宝飯郡一宮町(現在の愛知県豊川市)のお祭り。神輿はもちろん、参加者が十二単を着ていたのが綺麗だった。多分『砥鹿(とが)神社』でやってたんじゃないかと思うんだけど…」
会長「現在、深川神明宮例大祭で担がれる御神輿は1980年(昭和55)に新しくなりました。以前にもまして立派なお神輿になったので、それからは千葉県市川市にある『中台製作所』さんでメンテナンスしています。水が掛けられている分しっかりした手入れが必要で」
父「最近は担ぎ手が少なくなってきたな」
会長「特に子供神輿とかだと顕著だよね。町民に代わって神輿を担ぐ “担ぎ屋さん” にも頼みつつ、なんとか祭りは継続しています」
【補足】
深川神明宮の例大祭は、毎年8月17日に近い日曜日に開催されています。中でも3年に一度の本祭りでは、本殿祭に加え「神幸祭(宮神輿巡幸)」「町神輿連合渡御(勢揃い)」「稚児行列祭」などの祭礼行事が3日間にわたり盛大に執り行われるのだとか。今回のフィルムには町内を練り歩く神輿へ「水掛」をする様子が写っていたり、撮影年が3年の周期に沿っていたりすることから、50年前の「本祭り」の記録であることが分かります。また、映像には子供や女性によって曳かれる神輿や祭りに参加する紋入りの男性の様子なども収められており、当時の「本祭り」が、町の老若男女が総出で参加していた活気ある祭りであったことが伝わってきます。
——「撮影年不明_歩行者天国-東京下町」で訪れていた屋上遊園地のあるデパートはどちらですか?
父「うーん、家族でよく行っていたのは白木屋百貨店(後の東急百貨店)だけど…」
会長「地下にあったフレッシュジュース屋によく行ったよね」
母「日本橋の白木屋には、銀座の歩行者天国の時に行かないはず。銀座にある別の百貨店じゃないかな」
【補足】
その後、屋上遊園地から見えていた「第一三共」の看板や、併設されていた「狛犬」などをもとに調査を進めると、訪れていたデパートが「松屋銀座」であることが判明。決め手となった狛犬は、1969年(昭和44)の松屋創業100周年を記念した寄贈品であり、撮影年から考えても妥当だと思われます。また、狛犬が入り口に据えられている宝殿「龍光不動尊」内部の「不動明王御尊像」は、店の守り神として1929年(昭和4・「松屋銀座」創業より4年後)から現在に至るまで変わらずに安置されているそうです。
4.「観ること」について
——テレビの購入はいつごろでしたか?
父「買ったのは力道山が亡くなった時期だから1960年(昭和35)ごろ(※実際に力道山が亡くなったのは1963年(昭和38))、8mmカメラを買う10年ほど前だったと思う」
母「だいたい現上皇ご成婚頃(1959年(昭和34))だったかしら。 私が嫁いだ時にはテレビは既にありましたね」
父「テレビを買う以前はよく家の隣にあった電器屋さんへプロレスを見に行ったもんだな」
会長「自分が子供の頃にもみんなで家のTVを囲みプロレスを見ていました。見ているものも含めて“時代” ですね」
——当時、ご自宅に映写機はありましたか?
父「うん。カメラの後に、映写機とスクリーンも買い足したはず」
母「犬が映っている、アメリカのTVシネマかなんかの既成フィルムも買って映写したよね」
会長「観た記憶ないな。僕が小学生の時に、月に1回くらい土曜の夜に鉄板プレートで家族焼肉をした後に、二階で幼少期の自分たちが写ったフィルムの上映会をしてた気がするんだけど、二人は覚えてる?」
父・母「うーん、記憶にないねぇ」

(左:ケースに入った状態の映写機 右:ケースを外した状態の映写機 奥には保管箱も映っている)
——写真と動画で記憶の残り方は違いますか?
父「動画を見返している時の方が記憶が蘇える気はするな」
母「あと、空間的なことは動画の方がわかりやすい。当時はまだ高い建物が少なかったから、ふと写る空の広さに驚きます」
会長「自宅に友人を招いた際にこの8mmフィルムのDVDを見せたら『意外と面白い』と言ってくれました。当時のカメラはズームアップが出来なかったのですが、その分画面が広く切り取られていたため、自然に空の大きさが感じられる映像になったのではないかと思います。画面に収められる情報量も必然的に多くなっているので、音の情報が無くても友人は楽しんでくれたみたいです」
——今回デジタル化されたもの以外では、撮影していたフィルムはありますか?
父「今回以外で撮影していたフィルムはないと思う」
母「そうね、捨てた記憶もないからこれだけかと」
——8mm フィルムカメラ以降の動画機器に興味はありましたか?
父「子供が大きくなってからのことだったから、VHSなどのビデオ撮影機器には興味なかったな」
会長「結果的に、家に残っている映像はフィルムで撮ったものだけになったね」
——最後に。当時の方はなかなか観ることが出来なかったであろう家族の記録映像ですが、半世紀経った今観てみた感想を教えてください。
父「それはとても良かった。(映像を見れば)記憶が蘇るので」
母「子供たちの成長を動きなども含めて記録できているのが嬉しい。残しておいて良かったです」
取材を終えて
田中重幸
今回のプロジェクトで、長年疑問に思っていた我が家の8mmフィルムに関する疑問が解決したことで胸のつかえがおりました。仕事一筋の昭和の人間だと思っていた父が実は家族思い・趣味人だったことが分かりました。何かあると「俺は年の離れた末っ子だから、(親からは)放っておかれた」が口癖の私に対し、かみさんから常々「あなたは母親から一番愛されている」と言われてきましたが、インタビューの最中に親子ほど年の差がある時田さんに対し、私の過去の映像を見ては「可愛いでしょ?」と何度も言う母が気恥ずかしかったです。と同時に、3人の子供を育て上げてくれた両親には改めて感謝の念を抱きました。父から野球の才能を引き継げなかったことは残念でしたが…。
私がフィルムの画質を好むのはこうした経験と、幼少期に見ていた「特捜最前線」・「太陽にほえろ!」、「大都会」シリーズ・「大追跡」・「探偵物語」などの日本テレビの火曜9時の刑事ドラマの再放送と、おばあちゃんと一緒に見ていた時代劇のフィルム映像の影響だったことを思い出しました。この頃は「将来は刑事になる」と言っていて、同級生から「刑事さん」と呼ばれていたのは懐かしい思い出です。
高森町会の催しや私が参加している高森睦会で、本祭の映像を流すとみんなの記憶が蘇り、思い出話に花が咲きます。ホームムービーが持つ意義・重要性を改めて感じました。ホームムービーの魅力を活かすためにもっと地元で「地域映像」の活動をしたいのですが、停滞しています…。
映写機は残っていましたが、テレシネした後の8mmフィルムとカメラは見つけることができませんでした。映像アーキビストとして、オリジナルである8mmフィルムを廃棄することはあり得ませんが、実家はちょくちょく物の移動を行うので、違う場所にあると思います。実家に帰る頻度を増やし、捜索は続けます。約40年ぶりに見た映写機は、記憶以上にコンパクトでビックリしました。当時は大きく感じていましたが。
また、今回の企画に協力していただき、資料の整理・地図の作成などに尽力してくれ、話が行ったり来たりする田中家のインタビューに絶妙に応対してくれた時田桃々子さん、テレシネ作業をしていただいた株式会社 東京光音さん、インタビューを快く受け入れてくれた両親にお礼申し上げます。
時田桃々子
今回の記事の執筆は、半世紀という歳月の重みを、自らの手で触れるように感じることのできた貴重な機会となりました。撮影者本人でさえ少しずつ薄れていく記憶や、当然ながらインターネットに残ることのない情景を、フィルムは静かに、そして確かに記録してくれていました。そうした時間の手触りこそが、フィルムに宿る「懐かしさ」の源にあるのではないかと感じました。
田中家のご家族へのインタビューは、名古屋と東京の二拠点を結び、オンラインのビデオ通話で行いました。ドキドキしながら画面をつなぐと、お父さまは「あの子は名古屋にいるの?」「こちらからお茶は渡せるの?」と興味深そうに声をかけてくださり、一気に緊張がやわらぎました。また、お話を進めるうちにお母さまの口からぽつぽつと三河弁がこぼれはじめ、愛知出身の私は思わずほっこり。お互いの家族構成や年代に被りがあることや、映画好きな子供(重幸さん・私)に、草野球歴40年超の父親(お父さま・私の父)がいるなど趣味や関心にも似通っているところがあり、親しみを抱いてやりとりさせていただいておりました。
近年、映像を取り巻く技術は目まぐるしい進歩を遂げ、新たなかたちで人と人とをつないでいます。今回、田中家の皆さまと場所や時間を超えてお話しすることができたのも、まさにそうした技術の恩恵によるものでした。けれども、こうした時代だからこそ、映像がかつて決して当たり前のものではなかったという事実を、改めて見つめ直したいと思います。
私自身、田中家のホームムービーを繰り返し観るなかで、二つのことを強く実感しました。一つは、映像が本来、手間や時間、そして費用をかけて残される特別な記録であるということ。もう一つは、時代とともに撮影技術や媒体が変化しても、カメラが向けられる先そのものは、今も昔も大きく変わっていないということです。子どもの成長や家族旅行、運動会、地域の祭りなど、映像の一コマ一コマには、「この瞬間を残しておきたい」という切実な思いが刻まれています。人が本当に残したいもの、そしてそれを未来へ託したいと願う気持ちは、どれほど技術や時代が変化しようとも、変わることはないのかもしれません。今回の取材を機に、お父さま・お母さまにはご自身が撮影した映像を改めて見返していただくこととなりましした。とりわけお父さまにとっては、すでにその多くが記憶から薄れていたようですが、それだけに、最後にお父さまがおっしゃった「とても良かった」という真っ直ぐな気持ちは、強く私の心を打ちました。
ホームムービーは、きわめて個人的で、そして刹那的な営みです。映画のように広く共有されることを前提としたものではなく、誰かの手元でひっそりと保管され、ときに忘れられ、再生される機会を失ったまま失われていくことも少なくありません。それでもなおそこに映し出されているのは、かけがえのない日常の断片です。
だからこそ、このお父さまの言葉は田中家という一家族にとどまらず、誰かが何かを残そうとするすべての営みに静かに寄り添うもののように感じられました。そしてその言葉の響きの中にこそ、ホームムービー、ないしはフィルムに宿る「懐かしさ」の本質があるのではないでしょうか。
最後に、未熟者の自身に執筆を依頼してくださった田中重幸さん改め協会会長、そして拙いインタビューをあたたかく受け入れてくださった重幸さんのお父さま、お母さまに感謝申し上げます。
筆 者 紹 介
時田桃々子(ときたももこ)
一般社団法人日本映像アーキビスト協会会員
2002年生まれ。2025年立命館大学映像学部卒業。大卒フリーター。
これまで三箇所のミニシアターにアルバイトとして従事。録音技師・林基継氏の遺した6mm磁気音声テープの保存・再利用を行う立命館大学アート・リサーチセンター「884プロジェクト」や、IMAGICA EMSでのインターンへの参加を通し映画アーカイブへの関心を深める。特集上映「北欧の至宝」(京都みなみ会館,2022)、第14回京都ヒストリカ国際映画祭「映画と音楽の時空旅行」(京都文化博物館,2023)企画。
田中重幸(たなかしげゆき)
一般社団法人日本映像アーキビスト協会代表理事(会長)
中学で成田三樹夫氏のファンになり、高校で市川雷蔵サマの虜になり、大映を中心に邦画旧作を観るために名画座に通い詰める。國學院大學に進学し、『十三人の刺客』の西村晃さんの役に憧れて居合道部に所属するも辛酸を舐める。角川書店のOBが多く、『REX 恐竜物語』の前売り券を売る様に指示されたりするが、例の事件が起きてしまう…。バイト代のほとんどをレーザーディスクにつぎ込み、友人たちに雷サマと大映映画の楽しさ・素晴らしさの普及活動にいそしむ。初めの就職先は、「探偵物語」の影響で探偵業に近い職種と、職場が「大井武蔵野館」に近いと理由だけで決めてしまう。しかし、映画を仕事にする夢が諦められず、ADや映画ライターなどを経て、念願の大映株式会社にDVD制作担当として、潜り込むことに成功。学生時代に購入したレーザーディスク作品のDVD化作業に複雑な心境になる。それも束の間、大映は角川書店に営業権譲渡により、因縁の角川書店グループの一員になってしまいました。その後、映画の原版・素材を担当し、アナログ・デジタルの原版修復にも携わりました。音の修復では林基継氏 に多大なご協力と、大映・時代劇の知識を教えていただきました。時田さんと不思議な縁も感じています。吸収・合併を繰り返す組織に所属していたため、人生のバイブルとする映画は、『仁義なき戦い 代理戦争』。現在は退職し、一般社団法人日本映像アーキビスト協会の専任をしています。発会の経緯は、協会ホームページ「発会に寄せて」をご覧ください。











